降誕会or花祭り

4月8日は釈迦が誕生した日として祝われる。

<仏教の開祖、釈迦の生誕を祝福する仏教行事。潅仏会(かんぶつえ)仏生会(ぶっしょうえ)といい、「花祭り」は明治以降の名称。浴像会、降誕会などともいわれます。>

浄土真宗でも「降誕会」として寺院で聴聞が行われるが、この地方では、祭りという感じはない。それでいいと思う。

阿満利麿「親鸞

親鸞 (ちくま新書)

親鸞 (ちくま新書)

2011年1月に発行された本書をようやく読んだ。力作だ。
親鸞を「思想」として学ぶ人にも必読書と思う。
だが、仏教という「宗教」書でもある。
その象徴的な部分でわたしは、やはり、ひっかかる。念仏の意義について述べる部分(p155〜p158)。
これでは、念仏が一種の「まじない」になり、「行」ともなる、ということにならないか。しかも念仏は多く称えればとなえるほど「よい」と。
その現代的な根拠として「無意識」が説明される。
しかし、このような「説明」が不可欠なのか?わたしは「不信」の徒であるからそんな疑念を持つのである。まあ、もっと考えてみたい。
ともあれ、本書はいままでの入門書的な「親鸞論」にはなかった「信心の書」とも呼ぶべきたしかな著作だと思う。

仏教は「入門」すれば何とかなる

行動する仏教: 法然・親鸞の教えを受けつぐ (ちくま学芸文庫)

行動する仏教: 法然・親鸞の教えを受けつぐ (ちくま学芸文庫)

佐伯さんの本のまえ、とぎれとぎれに読み続けていた阿満さんの『行動する仏教』を読み終えたのでした。これはいい本です。

とかく人は、イヤになるような現実の前で「われわれは」「どこからきて、どこへゆくのか」などとポーズを取ります。

言っちゃあ悪いのですが、佐伯さんもそんなカッコよさを気取った感じでした。まあ、それを責めるつもりなんてありません。

問題は「私」なのです。「私」についてどう考え、どうするのか?

この、どうしようもない「私」です。その、愚かで、悪しき「凡夫」たる私はどう生きるのか。それが、まあ阿満さんの著書のいつものテーマですが、とりわけ本書は仏教入門書としてすぐれていると思いました。
私は、仏教は入門すればなんとかなる、と思っているので、ほとんど入門書の類しか読みません。
どんなジャンルでも、入門書だけで膨大なものがありますし、なかには、うんざりするような代物もあります。「入門」書かと思っていたら、いきなり裏口から外へ出ていたりするものだって多い。仏教ではその点、五木寛之も怪しい。嫌いじゃないけど、ちょっとね。でも、もっと怪しいものがいっぱいあるので五木さんだけとやかくはいえません。

最近、その彼が『新・幸福論』とかいう本を出したらしいですね。それを読むのならその前に佐伯氏の『反・幸福論』を読んでおいた方がいい。

また、島田裕己だっけ?『ほんとうの親鸞』という今までだれもつけなかった「すごい」タイトルの本を出したという広告を見ました。えっ?島田氏が?と、ちょっとびっくり。まあ、タイトルは早いもんがち。あるいは宣伝勝負。どうぞご自由に。です。まるで「お隣さん」の登録勝ちみたいですね。これは、読む必要ないと思います。まあ、古本で安くなったり、図書館に入って思い出したら読むかもしれません。

むしろ「脱・幸福論」を

反・幸福論 (新潮新書)
本書は、このブログ、3月11日の新聞記事の紹介で取り上げていた。
私が読んだのは、3月15日で8刷。かなり売れているらしい。
もともと、「新潮45」2010年12月号〜2011年8月号に連載したものを新書にまとめたという。9章にわたってさまざまなテーマが取り上げられている。
それぞれが面白い。だが、自由自在な知的言説の面白さも、その先に何もないという感じが残る。それは読む側の領域だと言うわけだろう。
「縁」について書いてあると言うので買ったが、しばらく読まないでいた。
無縁社会で何が悪い」という章では、無縁は「敗戦後体制」がみずから引き寄せたものだ、とずばっと指摘します。「無縁死」とか「孤独死」も同じ。その通りだと思います。
人は皆「死ぬときは一人」なのだから。
それよりも、本書は、法然親鸞そして浄土真宗についても書かれています。だが、「縁」にしろ仏教にしろいまいちつっこみが足りないとしか言いようがありません。
私が、似たようなことを論ずるなら、むしろ「脱・幸福論」にしたいと思いました。

まず、自分の意見を言うこと

それはある意味、それにふさわしい「強さ」が必要なことなのかも知れない。しかし、それは、状況次第であろう。
人はいつでも、どこでも、自分の意見を述べる自由を持つ。基本的人権の一つだ。(蛇足に類するが、意図的に他者を傷つけようとして発言することは唯一の例外だが、それは別の法的な判断を必要とするだろう。)
だから「強さ」を求められるのは、ほんとは権利状況が悪いことを意味する。こちらが「強さ」があるか否か?という問題以上の根本的な問題だ。思ったことを率直に言えない状況。それは、日本社会の大きな問題だろう。
そこで、田口ランディのインタビュー記事をごらんいただきたい。

私は『被爆のマリア』以来田口ランディの1ファンでありつづけている。
しかし、記事にも紹介されている『ヒロシマナガサキ、フクシマ』を読んでなにか釈然としないものを感じた。
その後、親しい人にその本の感想も聞いた。「田口ランディらしい、言い方じゃないの?とくに問題はないんじゃないの。」と(いう意味のことを)言われた。
なるほど、そうかな、そうだよな。と思っても読み直す元気が出ない。
田口ランディ初期の小説も読む元気が出ないが、後のものにそんなことを感じたことはなかった。やや、スピリチャル傾向が気になったものもあるが、最近は、浄土真宗も勉強しているらしくその面でも興味深く読んできた。だが、この違和感は何なのか?ずっと、それを持ち越してきた。その間、田口ランディは読めなかった。
そんな中、この記事を病院の新聞で見つけて中国新聞を購読している知り合いの人に頼んで紙面をいただいたわけであった。

広島にて
被爆のマリア』の書き方には共感できた。
ヒロシマ(や、おそらくナガサキも)には、ちょっと入り込めない「なにか」があった。

私は、広島県で生まれ、もっとも身近にはいちばん上の姉が入市被爆。学徒動員(勤労奉仕?)の帰途、広島市を通り被爆した。57、8歳のとき癌で亡くなった。姉ばかり4人の末っ子の私が病気がちの母代わりに世話になり、なついた姉だった。伯父、伯母、いとこも被爆死。別の叔父、叔母ほかがケロイドを負うほどひだい被爆をした。広島県島根県あたりには被爆者やその関係者は多い。現在暮らしているこの地では、周りにもたくさんの人々がおられる。原爆は、まったく当たり前の「体験」でもある。高齢者は特に多い。今日も被爆者で癌を治療中の人や被爆した連れ合いさんを亡くされた人と同じ会にご一緒した。かなり親しい。

それでもなお、カタカナ書きのヒロシマには抵抗があった。
なにかの研修会で話した広島市内で働く私よりずっと若い人々の「被害者意識」にはうんざりさせられた経験がある。運動が単に被害者意識だけで形成されている面もあったのだ。それは、やはり「思考停止」のひとつの形だろう。
(たぶん)当事者でもない若者が、なぜ被害者そのものの物言いをするのか?立場がそうさせるのか?正義がそうせよというのか?党派性が働いているのか?…など、私たちは自問が必要である。そしてただ「加害−被害」の黒白の運動は不毛である。
田口ランディは、そうした問題性で硬直したヒロシマに敏感に反応したのだと思われた。(この項は「つづき」ますが、その際はまたタイトルを新たにします。)

地味な話の中にほんとの実際がある


なるほどなあ、と思わせられた。体験しなければわからないことがある。そのことは肝に銘じておこう。


寺の掲示板に放射能「本日の放射線量」の計測数値が張り出されているというのは、ある種、感動的でさえある。さすがに、浄土真宗大谷(東本願寺)派だ!
この人も立派、というか、感性が鋭いと思うし、その人を京都まで呼んで学習・研修する人も尊敬に値すると思う。まずは「当事者」の話を聞く…できそうでできないことです。

たしかに「縁」ではあるが…


まだ、書きたいことがあります。とりあえず、記事を引用しました。  

「絆」は、強い結びつきであるが故に
絆という言葉が当たり前のように「必要」とされ、疑いもなく「善」であり、「美徳」であるかのように思われているらしい。いや、マスコミはこぞってそう扱っている。
だが、「絆」は、強い結びつきであるが故に、お互いを束縛し、絆を持たない他者を排除する性質を持つことはよく知られている。閉鎖的な関係(と、その志向)と言い換えてもいい。
くらべて「縁」は、もっとゆるくて開放的な関係性を意味する。(したがって縁は「わかりにくい」とも言える。)
そういう意味では「絆」より「縁」という関係性を追求する方がいい。
仏教思想が示唆することは、絆も縁も「業縁(または縁起)」のあり方の一つだ、ということだろう。そこで何を大切に思い、選び取ろうとするか?主体が問われる。

無縁社会」という言葉で示される関係は、よく考えてみると、実は「無・
絆」社会とでも言える内容を意味するのではないかという場合がある。「縁」に対してとても鈍感な社会でもある。あるいは「絆」をもたないがために、排除され、無視され、つながれなかった関係、とでもいうような。つまり、縁がないというわけではない。縁を縁として気づかない関係志向(性)がそこにありはしないか。

まだ、↓の本は読んでいないが、これは読んだ方がいいと思うのでまたつづきで論じてみたいと思います。

反・幸福論 (新潮新書)

反・幸福論 (新潮新書)