たしかに「縁」ではあるが…


まだ、書きたいことがあります。とりあえず、記事を引用しました。  

「絆」は、強い結びつきであるが故に
絆という言葉が当たり前のように「必要」とされ、疑いもなく「善」であり、「美徳」であるかのように思われているらしい。いや、マスコミはこぞってそう扱っている。
だが、「絆」は、強い結びつきであるが故に、お互いを束縛し、絆を持たない他者を排除する性質を持つことはよく知られている。閉鎖的な関係(と、その志向)と言い換えてもいい。
くらべて「縁」は、もっとゆるくて開放的な関係性を意味する。(したがって縁は「わかりにくい」とも言える。)
そういう意味では「絆」より「縁」という関係性を追求する方がいい。
仏教思想が示唆することは、絆も縁も「業縁(または縁起)」のあり方の一つだ、ということだろう。そこで何を大切に思い、選び取ろうとするか?主体が問われる。

無縁社会」という言葉で示される関係は、よく考えてみると、実は「無・
絆」社会とでも言える内容を意味するのではないかという場合がある。「縁」に対してとても鈍感な社会でもある。あるいは「絆」をもたないがために、排除され、無視され、つながれなかった関係、とでもいうような。つまり、縁がないというわけではない。縁を縁として気づかない関係志向(性)がそこにありはしないか。

まだ、↓の本は読んでいないが、これは読んだ方がいいと思うのでまたつづきで論じてみたいと思います。

反・幸福論 (新潮新書)

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