「おためごかし」の親鸞論―知識人のいやがらせか?―

「そんなお為ごかしはもう聞きあきた」
I'm tired of hearing about how it's all for my own good.
…web辞典で調べたらこうあった。
I'm とは「親鸞」ファンのことだ。
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またしても!まちがった「他力論」
つぎの新聞記事を読んでみてください。

とりわけ悪意を感じるのは赤い傍線をつけた部分です。
たとえば、東日本大震災の被災地にいて、自分も被災したために支援を受けます。これは浄土真宗本来の姿となります。しかし、自分はまだ元気で余力があるため避難所の運営や荷物の運び入れなどできる限り尽力しました。でもこれは「自力」のために浄土真宗の人としては本来あるべき姿ではないことになります。こんなバカなことを思う人がどこにいるでしょうか!
――いや、ここにいるわけです。末木某という人。どんな宗教観の持ち主かわかりませんが、さいわいにも浄土真宗ではないみたいです。

こんな、「明々白々の誤解」を書き立てるには悪意がないとできそうに思えません。
真宗の人」は社会的な活動をすることが「自力の行」だからまちがっている、というわけです。アホ!かと思います。人が生きて行くためには、さまざまな努力、尽力、辛苦が必要です。それをみな「自力だ」といって排除したら誰も生きてはいけません。ボランティアだってそうです。仏教本来の慈悲など持ち出すまでもないでしょう。まず「ひと」としてどうなの?です。
これらは「自力/他力」の範疇外のことなのです。

こんな文章は「現代知識人のおおいなる誤解」というよりも、親鸞思想へのいやがらせですね。たしか、この著者の先輩(国際日本文化研究センターの)大先生が『誤解された歎異抄』とかを書いたのは、もう一昔、二昔も前のこと。ゾンビの跡継ぎというわけでしょうか。
私は、なぜこんな誤解をわざわざふりまくのか?そのモチーフを知りたいと思います。

このテーマの参考に↓この本を紹介します。

社会をつくる仏教―エンゲイジド・ブッディズム

社会をつくる仏教―エンゲイジド・ブッディズム