玄侑宗久さんの著『無常という力』

無常という力―「方丈記」に学ぶ心の在り方

無常という力―「方丈記」に学ぶ心の在り方

 本書は、今年になって読んだ。帯の裏表紙ぶんを紹介しておこう。

 玄侑宗久氏は、このあと『福島に生きる』を書いた。
 ここに、まあ広告を兼ねた「いま、なぜ『方丈記』なのか」というモチーフも簡単に示されている。
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 私は再三、玄侑さんが書いたものへの異和感を表明してきた。
 それを具体的に書いてみたい。まず。

 54ページから55ページにまたがる文章。
放射能などというわれわれの身体が察知できないものに振り回されてはいけない」云々というカ所。
 われわれ(の身体)は、察知できない多くのものの影響下にある。かつて玄侑氏が書いたダーク・マターなどその最たるもので、影響を受けているかどうかさえ定かではない。
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 いいたいことは「悩みを深める必要はない」ということだろう。
 たしかに、「悩みを深める」とはどういうことか別にすれば、一般的にはそうだ、と思う。
と、ここで、これらの文章がかなり注意深く書かれているらしいと言うこともおぼろにわかる。
 さらに「一喜一憂する」とはどういう状態なのか?
 読んだだけではよくわからない。
 そんなことを言う羽目になるのは、たとえば数ページ後(60〜61ページ)に、こんなことが書いてあるからだ。

ええっ?こりゃあどういうこと?
放射能は低ければ低いほどいい」わけ「でないかもしれない」…。
 これを素直に読み替えると、放射能は高ければ高いほどよくない、というわけでもないかも知れない、という理屈も成り立つ? それはさすがに屁理屈か?
 わたしたちが、身体で察知できるほど放射線量が「高ければ」ほぼ私たちは致命傷に近い被爆をしたことになる。(これは、数多くの被爆体験を通してわたしたちが知り得たことだ。また、たとえば、東海村JOC被爆犠牲者の医療記録はNHK取材班がまとめた「朽ちていった命」などで克明になされてきた。)
 だが、察知できない程度の被爆の被害がいかなるものなのか、その全体像はいまだあきらかではない、といえる。一方に、久しい前から「低線量被爆があぶない」と指摘されてきたこともまた事実だ。
 放射線被曝の「いい」と「よくない」との線引きなど今の段階ではっきりわかるものではないのだ。だが、低線量被爆の危険性はさまざまに論究されている。そういう科学的な知見を一概に否定できるわけのものでもない。
 ここでいわれていることは、そういう類のことではないのだろうか。
 心はより自由そうに、風流に、しかし、身体はしっかりと放射能にとらえられている、それは「みせかけ」の自由、風流、楽しみにすぎなくはないか。
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 もう一つ。帯に見える「覚悟」ということば。
 最近、よく見聞きする。ここは、玄侑さんが本文で使っているわけではないので、自身書いたのかどうかはわからない。だが『福島に生きる』では、本文に書いてあったと記憶している。要するに「ここで生きる」覚悟?とでもいうこと。
 私はもう10年も20年も前から「覚悟」ということばが嫌いだと思ってきた。覚悟なんてしても続きはしないし、つづいたってどうってことない。いや、むしろ悪い結果の方が多い。もっと、のびやかに生きていいじゃないか。
朽ちていった命:被曝治療83日間の記録 (新潮文庫)

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