『方丈記』と空念仏

 かつて、私はこう書いた。
≪自力といい、他力というのは、あくまでも「われら」の浄土往生にかかる「力」なのであって、いわば「仏の力」をキー・ワードに考えるべき事柄である。誤解は、「力」を単に、人間の「努力」とか「尽力」などの「力」と混同するが故に起こる。
 この大きな誤解は、力を現実的に働く力、人間が(よりよく)生きてゆくために行う努力と「本願力」を混同する。
.....
 ここでも「空(から)念仏」は、間違いとされている。普通、そういわれるとなかなか反論はしにくい。
 だが他力念仏の究極は、空念仏にこそある。 逆にいえば、「空」ではない念仏は、どんな中身がつめられているのか?少し考えればわかることだ。
 浄土往生、願い事、社会性、報恩…それらはすべて自力の願いである。≫
(このブログ2011/01/07「自力と他力」参照)

 これは、たとえば『方丈記』、末尾に見える「不請阿弥陀仏」とほぼ同じ意義と考えている。つまり、

である。
 鴨長明は、おそらく、念仏の歩みの中で法然までの主張はよく知っていたと思われる。『方丈記』を書いたのは法然没後程なくの頃であった。
 ここで、鴨長明はふたたび、みたび『方丈記』を書いたことの全否定につながるシニカルな見方を自己に向け、
「ただ2、3遍、求めなくても救ってくださるという阿弥陀仏の名をとなえるだけだ…」
と、書き付ける。つまり口舌だけの空念仏を唱えたというのである。
 そして、鴨長明はこのかぎりにおいて、現在の真宗教団(の大勢)よりは、はるかに法然親鸞法然親鸞の微妙な違いはもちろん無視できないが、いまはそれはふれえない)に近かったと思える。
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 さて、われわれは、3.11震災後、よく読まれているらしい『方丈記』について、「なぜ?『方丈記』なのか」を問う必要を感じる。

方丈記 (岩波文庫)

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