「要不要」以前の問題
福島原発事故以来、明らかになってきたことは、今の技術では原子力・核エネルギーは「管理」できない、ということだ。(いや!こんなことはすでにわかっていた!それをついごまかされてきたことを真剣に反省すべきなのだが…)
どんなに楽観主義的に考えようと、人類は存亡の危機の崖上で笑っているのと同じことだろう。つまり、人類は核をもつかぎり絶滅危惧種の一つである。
「電気が足らない」などということは、余りに目先の問題に過ぎない。
目先の問題から視点を変えるために椎名誠の文を参考にしてみよう。(↓クリック拡大)
とくに、次の部分が問題のイメージをつくるためにわかりやすい。
- 作者: 永井智哉
- 出版社/メーカー: 世界文化社
- 発売日: 2002/09/01
- メディア: 単行本
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「生態圏」エネルギー
中沢新一が「生態圏エネルギー」と呼んだその「生態圏」とは、この比喩に描かれている地上1mm〜地下(水面以下)1mm、計2mmの範囲内のことだと考えていい。(『大津波と原発』)
化石燃料だとか、自然エネルギーと言うとそれぞれ「勘違い」してしまう。
原子力だって自然なのだし、そもそも人間も自然の一部だから。
核エネルギーは、少なくとも「生態圏」には存在しなかったものだ。
その「生態圏」の中で、圧倒的な自然の脅威に対してなすすべもないかに思える人間が、核エネルギーを制御できると思うのは傲慢に過ぎる。
この本で中沢がもう一つ指摘しているのは、原子力が「一神教的技術」だということだ。さて、発想と技術はそんなふうに言えるかも知れないが、逆に、仏教は核兵器や原子力を発想しないだろうという感じは持つ。
しかし、神仏習合は中沢の言うこととはまったく違って、一神教的指向性をもつと私は思うから、「一神教的技術」をも模倣することは間違いないと思う。神仏習合する「仏」はもはや「仏教」の仏ではなく、神の一つに変容(堕落)したものにすぎまい。