戸次公正の葬式必要論

 戸次(べっき)公正の文章や講話には何度か接してきた。私なりに畏敬する人である。
 彼に『意味不明でありがたいのか』という本がある。その著の中で「私の葬式必要論」というのがある。とりたてて珍しい論があるわけではない小論だが、まあ言いたいことはわかる。いわば「区切り」をつける、ということか。
 なお、この本自体は「お経は日本語で」というサブタイトルに示されるとおり、お経を「日本語」化しようという意図で書かれている。それは、本書タイトルの通り「意味不明」なお経を聴いてありがたがるという儀式化への根本的な批判であろう。
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 私は、葬式は「ひっそり」と、近親者ならびにそれに近い人が行えばいいと思っている。葬式とて、ずっと「家」の葬式だった。そろそろ、遺族と故人の「私的」なものにすればいい。
 ただ、その場合も「葬式は誰のものか」という問題は残る。「死」は死者のものだが、死体は「本人」?のものではない。
(むろん「私的所有」論の枠外でのこと!。「所有」の枠を外れるが故に、死体は最小限の公的な承認と管理下に置かれる。)
 だから、「私」の葬式は私自身の思惑を越えるが、遺志は伝えられる。それがどうなるかはもちろん「私」の知る限りではない。
 私は、そのように考えている。

意味不明でありがたいのか――お経は日本語で(祥伝社新書221)

意味不明でありがたいのか――お経は日本語で(祥伝社新書221)