ほんとうに葬式はいらないか?

『葬式は要らない』のか

 島田祐巳の『葬式は要らない』は2010年の初頭に出版されたらしい。私はいままで読まずにきた。
 書かれていることは、葬式が必要か不要かという論議よりも、高い費用をかけた葬式への、人々の不満やそれを誘導する仏教界とか業者への批判である。
 いまや「葬式はしたくてもできない」、でもしなきゃあ「世間体」がたたない、とか、もっと簡素に、無理なほど高い費用をかけなくてすることはできないか、という「現実」的な問題として人々を悩ましている。
 こんなはずではなかった!のではないか?

 さらに、現在、大きな問題として出てきているのは、田舎の「講」による相互扶助としての葬式を出す場合、講の人々へ世話になれない気分があって、業者に一括依頼するという問題だ。葬式が「セレモニー化」するに従って、この方式が簡素化(実は、これがセレモニー化という意味では皮肉にも「華美」化なのだが)でもあるというおかしな実情ができてしまっている。

 さらに、仏教が「葬式仏教」に転落する前、民衆は仏教にしろなんにしろ葬式を出すことなどできなかったという歴史をわすれてはならない。
 民衆の葬式は、律宗の「えいそん」・忍性らによって可能になったという指摘(松尾剛次)を無視できない。鎌倉新仏教の評価の仕方の一つ。

 それは、その時点で「死穢」つまり死を穢れとする呪術宗教の仏教による克服を意味していたが、葬式仏教は、死を仏縁とする・死後の往生を呪術的に願望するというもう一つの呪術の園に転落したものになっていった。
 これが今日の葬式仏教の意味するものである。それは、「後生の一大事」死後往生をひたすら願う念仏であり、先祖霊を崇拝する信仰なのである。
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 ここにいたって、はじめて葬式の要不要論を克服する道が見えてくる。
 ≪ひとの「死」ではなく、「生」において≫集う。考え、語り合う。そういう仏教のあり方にである。
(参考・中川洋子「そのひとの『死』ではなく、『生』において集うために」
………『島根反靖連通信』第23号)

葬式は、要らない (幻冬舎新書)

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