教団の<改革>その前提
『今、ここに生きる仏教』を読んで(その1)
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本著(対談集)の第1章「『説く仏教』から『聞く仏教へ』」をまず読んだところ。
いままでの大谷光真氏の図書よりも読みやすい感じはあるが、私が、知的な作業がしんどい状態でなかなかすすまない。
大谷氏にも上田氏にも共感できる部分がかなりある。
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ただ、大谷氏は真宗(本願寺派)教団の門主という立場から「ものを言う」わけだが、それは、僧侶の一人でもなく、門徒の一人でも「ない」。特権的な立場で都合よく発言している。という感じはぬぐえない。
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わたしは、教団の改革は、血脈相承の「門主」(トップ)、世襲制の住職という制度を変える以外、いわばなにを言っても仕方ないと思っているのでそうした権威主義や特権的な立場からの発言はまったく信用ならない。
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僧侶〜門主までの教団(指導部?)構成員は、いわば、門徒の支払う費用で食べているという構図自体はかわらない。もちろん他の収入はあることも認める。しかし、私たち門徒に、彼らを選ぶ権限は「ない」。きわめて非民主主義的な組織なのである。
そこに、一僧侶に至るまでの骨髄にまで徹した「傲慢さ」がまかり通ってきた、本質的な問題の原因がある。
そのことをどう考えているか?話題になっていない。(2、3章で出るかもしれないが…。)
まず、これが、この本の最大の欺瞞であると感じてしまう。
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思うに、幕藩体制の主要な支配構造に組み入れられて権力として民衆を支配してきた「真宗」教団(いわゆる「伝統仏教」のすべて)は、明治の「維新」を天皇制と合体して、そのまま生き延びてきた。
その歴史的な反省が、組織的におこなわれるなら、将来的に民主的な教団も可能になろうし、現在の多くの問題の解決への入り口に立つことになると思う。
そのことを抜きに、僧侶の資質や地方の体質などの問題を考えても仕方ない。
その意味で、「空念仏」批判は片腹痛いのだ。
つまり、大谷氏は、単に「社会派」に見せかけた立場からものを言っているに過ぎない。その「中味」はいつでも180度転換可能ではないか。
上田氏も、それに寄りかかって「問題の共有」を喜んでいるだけだ。そこは、真宗(念仏者)でないから、惑わされてしまうに違いない。
- 作者: 大谷光真,上田紀行
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