自力と他力
「他力」とは?
「他力」ということばは、しばしば仏教用語としてではなく、日常語として使われ、大きな誤解を生んできた。
ここに、親鸞を開祖とする真宗教団の本山トップである人が、次のような発言をしている(と報道されている)。
*朝日新聞 2010.12.14
この「他力」ということばの使い方は非仏教的だ。
この発言の中で、典型的な箇所はこの部分に見える。
自力といい、他力というのは、あくまでも「われら」の浄土往生にかかる「力」なのであって、いわば「仏の力」をキー・ワードに考えるべき事柄である。
誤解は、「力」を単に、人間の「努力」とか「尽力」などの「力」と混同するが故に起こる。
「行」に向ける「自力」は、それによって浄土往生、成仏を企図するがために、仏の本願力にかえて自分の力をたのむ。
この大きな誤解は、力を現実的に働く力、人間が(よりよく)生きてゆくために行う努力と「本願力」を混同する。
よくよく考えてみるべきだろう。
「空念仏」こそ
ここでも「空(から)念仏」は、間違いとされている。普通、そういわれるとなかなか反論はしにくい。
だが他力念仏の究極は、空念仏にこそある。
逆にいえば、「空」ではない念仏は、どんな中身がつめられているのか?少し考えればわかることだ。
浄土往生、願い事、社会性、報恩…それらはすべて自力の願いである。
これらのうち「社会性」は「念仏」とは次元が異なる。人間存在の現実的な問題解決への意欲、意図、意志の問題だろう。
それを念仏としてとなえても意味はなさない。
空念仏こそ念仏の神髄である。