目線、まなざし

 中井久夫『樹をみつめて』の最後の数行はとても示唆的だ。
 ≪医学は人体を宇宙の中心に据えた天動説生物学になりがちである。…医学だけではない。自国からしかものが見えない傾向が強まっているのも天動説復帰であろう。時には植物の側から眺めると見えてくるものがある。そういう眼を持ちたいものである。以下略≫
.
 『樹をみつめて』の中で、かなり大きな比重がおかれたものに「神谷美恵子さんの「人と読書」をめぐって」というエッセイがある。
 今更ながら、私は神谷恵美子の偉大さに思いを巡らせた。たとえば、中井久夫によると、
≪彼女の文章に啓蒙の濁った臭いがない≫
ことを指摘する。
 ちょうど図書館で鶴見俊輔の『悼詞』を読む機会が与えられていた。
 鶴見は、その「神谷恵美子――おなじ目の高さで」を、
神谷美恵子は、聖者である。≫
という一行から書き始めている。
 また、「後記」に≪日本の哲学史が神谷恵美子の項目を欠くことに、私は、哲学観の片寄りを感じる≫とも書いている。
 鶴見俊輔は15歳の時、アメリカで神谷(旧姓だから、前田?)に会っている、という。8歳年長だった彼女が「同じ目の高さで」語りかけてくれたという。そして、彼女は生涯を通じて、どんな人とも同じ目の高さでつきあった。
≪これが、聖者の風格であった≫と。
.
 これまで私はM.フーコーの神谷翻訳いがいでは神谷恵美子を読まないできた。読めなかった、と言えるかも知れない。
 私は、あらためてその『ヴァージニア・ウルフ』論を読みかけてみるつもりになった。その本は図書館にもあるし、古書ならまだ買える。