医学と呪術と宗教と
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中井久夫『精神科医がものを書くとき』(2)
(承前)
先に触れた中井の本書に、これまた短章だが「宗教と精神医学」(初出1995年)がある。
この論考は、実際ある「宗教家からの質問」に答えて書かれたらしい。
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宗教と精神医学という問題は、現実的に、かなり多くの患者(病院にいったほうがいいと思えるような・・・)が、
「宗教」に入って「修養」したりしている事例が少なからずあると思うのでその点でもたいへん現実的だ。
この現実的な問題は、なにもカルト教団や新・新宗教などに限らず、既成の仏教、神道、キリスト教その他さまざまな「宗教」や似非宗教に言える。
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私の場合について言えば、私はきわめて不熱心だが、仏教徒として自覚し、公言もする。はっきり宗教的な自覚をもつ(ないしその努力をする)という意味でニホン人としては「少数派」だと思う。
仏教徒といってもいろいろあるが、私は親鸞を仏祖とする浄土真宗。ただし、親鸞が決して宗祖を名乗らず、その意図もなかったということにてらせば、法然を祖とする浄土宗系のいち仏教徒である(その意味で「念仏者」という場合もある)。
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実は、その浄土真宗でも「うつ病」が治らないのは、教えの神髄を理解していないか、信心が足らないか、間違っているか・・・だ、と思われることが多々ある。宗派的な概念で言えば、「安心(あんじん)」をえていないから、と言える。
だが、私に言わせれば、真宗で病気が治ると思う方が傲慢だし、大きな誤解だと思う。
親鸞自身が「うつ病」だったのではないかという「病跡学」論者もいる。
(真偽は永遠にわからないが、いわば「天才」はごく普通に生きることができないケースが多い。それを凡才が、安易に「正常と異常」の通年で推量することは慎むべきだとは思う。)
とすれば、精神医学の対象となる「病気」と宗教とりわけ仏教はどのような関係になるのか。
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少なくとも、「病気を治す宗教」(という宗教)など呪術でしかない。もちろん、そういうケースが皆無とは言わない。ただ、病気は「心がけ」などでは治らない。もし治ったとすれば、ほかの方法でも治る時期にあったということだろう。
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本書では、マリノフスキーの言葉が紹介されている。
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<不確実な事態に不確実な技術で対応する場合に呪術があり、確実に成功する技術に呪術はない。>
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したがって、たとえばマラソンを科学的な方法で走るなら、「お守り」など不要である。
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精神医学や医療が「確実さ」をもたない以上、呪術の入り込む余地は十分ある。それが、この問題の深刻で重大な現実性をもたらしている。
だが、そもそもすべての医学・医療が「確実に」すべての病気を治せるなどということは考えられない。
ここに、仏陀が人の生死について免れがたい苦を「生老病死」とした意味が、いかに深い現実の洞察であることか!と思い直す。
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「この宗教」を信じれば、病気も治る、などという宗教は頭から信じない方がいい。
少なくとも、風邪とか、インフルエンザ、胃潰瘍などならば人びとは呪術宗教よりも病院へ行く。が、こと「精神科・神経科」のことになると呪術へ行ってみたり、さまざまな病気が続いたりすると「おがみやさん」へ行く。
私は、呪術を否定するからこそ親鸞浄土教を私の宗教として選んだ。
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中井久夫は、本書で「魂の救済」という宗教的テーゼについていわば「保留」していることは大切な点だと思う。
また、精神医学(医療)と宗教の問題は、双方の歴史的な意味に深く関わっている。その意味でも、少し後に所収されている「近代精神医療のなりたち」という文章をあわせて参考にしたいところだ。
語るべきことは多く、語り得ないこともまた多い。