「生きる意味」というものはない
今日の朝日新聞の天声人語(2009年12月8日付)は、こんなふうに書いている。
この意見には共感できる。
つまり、
<美しい「花」がある、「花」の美しさというようなものはない>。
「というようなもの」という抽象は不可能だ、ということであろう。
この小林秀雄の論にならえば、
<「生きている」いのちがある。生きている(いのちの)意味というようなものはない。>
もちろん、すでに繰り返し書いたが、まったき語義において主観的に「生きる意味」を考えたり、もつことは自由である。
またそれは、誰も否定できるものではないし、否定すべきものでもない。
いいかえれば、生きる意味なんて抽象的なものはない。
生きていることがすべてである。
先日、田中優子の書いたものを読んでいたら、似たような話があった。
江戸時代の人びとの考え方には、
<仕合せといっても、いい仕合せと悪い仕合せがある>。
「仕合せ」が「良い幸せ」しかないというのは、近代になってからの勘違いだ…というような意味のことである。[記憶にたよっているので字義通りではない]