無縁社会とは?

[無縁社会]ー“無縁死”三万二千人の衝撃NHK取材班

 NHK取材班著『無縁社会ー“無縁死”三万二千人の衝撃』を読んだ。

無縁社会とは編集

 まずは、いま東日本大震災および福島原発事故が進行中のなか、これらのできごとと無関係にこの問題を考えることはできないが、それでも、多数の自殺者のもんだいもふくめて、この社会を考える一つのキー・ワードとしても、あるいは、仏教者の一人としても「無縁」とは何か?あるいはそもそも「縁」とは何か?についてここで考えることは必要なことだと思える。
 「無縁社会」という言葉は、おかしなことばで厳密に言えば、最初から成立しがたい。社会それ自体がいわば「縁の集積」だからだ。
 因縁とか縁起の思想は、仏教の基本概念だろう。
 私あるいは人間は、「縁」無くしては存在しない。
 それを押して「無縁」というのは「…に見える」といった見方の問題だということを前提とする必要がある。
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無縁死が価値のない「死」だときめつけないで

「無縁死」して引き取り手のない遺骨のおおくがあるお寺におさめられるらしい。そこの住職さんが、
「みんな、それぞれの一生があるのに、ただ人生の終盤地点で孤立したというだけでね、そんな価値のない一生となってしまっていいんだろうか。」p84
といわれるのは早急ではないか。
 その他、いろいろ議論したいことはある。
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「無縁」とは、たんに「絆」を失った結果か

 そんなことはないだろう。「無縁」に対して既存の(?!)「絆」を回復させることがはたして、必要で、唯一の対処法なのか。
 本書は、最終章を
「絆を取り戻すために」
という、タイトルでしめくくる。この取材の話は本書で最も感動的だった。こういう人生があること自体に救われる思いがする。
 だが、この生き方、死に方に、ただ
「絆」
などという復古主義的な印象が強い言葉をおしつけて、ほんとうに「意味を限定」できるだろうか。
 もっと、個人が自由を求めて四苦八苦して生きていく、そのことの大切さをこそ認めるべきではないのか。私は、強くそう感じた。 (つづく)

無縁社会

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