お年寄の「孤独」ということ

20日の朝日新聞天声人語」は、高齢者の「孤独」とか「生きがい」について書いている。


ここで取り上げることは部分的だが、いちおう全文をコピーしてみた。
「人語」は、――お年寄の万引きの動機で目立つのは「孤独」「生きがいがない」で
(私見では、どちらも「万引き」の直接の「動機」とはいえないが、それはさておいて)、
さらに約9割が、友人が「いない」「少ない」と答えた点に注目している――

私は、お年寄の孤独と「友達がいない、または少ない」という状態は、
高年齢にとって避けがたいことだろうと考えている。
高齢で「生き残っている」ことは、
夫や妻、知人、友人たちと死に別れてきたことであるし、
体力、気力の衰えなどによって、
社会的な活動がせばまると、必然的に、
知人、友人との交友関係が少なくなると云うことを意味している。

たとえ身近に家族がいても、人間的活動のあり方としての「孤独」さは避けがたい。
問題は、これらが「避けられる」べきこと、あっては「ならない」と思いこむことだ。
お年寄が孤独なら、それはそれでまず受け入れる必要がある。
そうしたうえで、孤独だという状態をコミュニケーションの場へ出せる環境をつくる。
また、おとしよりのみならず、そもそも人間は孤独なんだという理解が必要だろう。
お年寄は、その人間としての孤独に、対処するエネルギーが少ない。
そこを、どう支援できるか? それをまだお年寄になっていない人たちが考える。
それがやがて、自分がお年寄になったときに役に立てられればそうすればいい。
お年寄は、お年寄に「まだなっていない」人の未来の姿だ。

(追記)
私自身も高齢者だが、やはり孤独を感じている。
いまは、俳句の会と読書会に大切な友人・知人との交友を持っている。
――どちらも、お年寄だけではない。
そこには、若い頃にはなかった信頼や感動やがいつもやってくる。
このうち読書会は最近はじめたばかりだが、
声を掛け合ってあつまったメンバーの積極性は意外なほどだった。

→次はお年寄の「生きがい」について。