「生きる意味」を問うことの意味
田口ランディに『生きる意味を教えてください』というそれなりに面白い本がある。多分野の人との対談集だ。
- 作者: 田口ランディ
- 出版社/メーカー: バジリコ
- 発売日: 2008/03/01
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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その商品紹介には次のように書かれている。
「内容紹介
みんな最期は死んじゃうのに、どうして生きているのかなあ
「ひとはなぜ必ず死ぬのに生きるのでしょうか?」一人の若者から届いたメールが、作家・田口ランディの心にスイッチを入れました。その問いに対する答えを探して、東大文学部の「死生学」ゼミに参加し、認知症老人のグループホームで働き、メキシコにマジックマッシュルームを体験しに行く日々。その過程で出会った、同じ問いを共有できるさまざまな人々と交わした、生きる意味について考える重量級の対話集。ひきこもり、ネット自殺、リストカットの時代に生きるための、心の処方箋です。」
もちろん、と私は思うのだが、その答えはない。
生きる意味は、それを問う人の数ほどある。
だからといって、それらに共通するものを抽象したら「普遍的」な内容が抽出できるか。
――と言えば、問題はそれほど簡単ではない。
それは、問いと答えがきわめて主観的で、個人的な問題だからである。
はっきり言えば「生きる意味」を問うその人にとっての、「問い自体の意味」が考えられなければ、問いそのものが成立しない。
つまり、なぜ生きる意味が問題になるのか?という「問い」が先に問われる必要がある。
私は、結局ひとつの結論にたどり着く。
すなわち「生きる意味」はあってもなくてもいいじゃあないか。
「生きる意味」はあってもなくてもいいじゃあないか。
およそ、人間以外の生命体は、個体ならその生命を保持する(生きる)ことが、種・類としては、世代をつなぐことが最大のテーマである。生命体の内部にそれはプログラミングされている。
たとえば動植物の「絶滅種」や「絶滅危惧種」を強く意識する人間の行為は、それらと人間が共通の生命体だからだ。
人は生きる意味があってもなくても生きる。いや、むしろここでいう「意味」はすべて後付なのだ。
だからこそ、他者がだれかの生きる意味を決めることはできない。いのちの絶対的な平等。
それが、近代が成立した「生きる」権利の基本だ。基本的人権の基盤と言える生存権とは、このことをさしてもいる。
すでに、ずいぶん前、柄谷行人が「意味という病」というわけのわからない本を出した。
だがこの本のタイトルだけはあたっていると思う。過剰に意味を求めるのは現代人の病気なのだ。
生きることの無意味さに耐えて生きる。それが生きるということだ。
一人で死ねない殺人自殺
「生きる意味」がない、生きていても仕方ない、と思ったら、そう思う自分の価値観が「おかしい」と考えた方がいい。
自殺は、「生きる意味がないから」と言う理由で選択されることはない、と私は思っている。
だから、へんな「意味」にとらわれた若者は自分一人で自殺できない。誰彼を巻き添えにしてしまう。
そうしないと一人では死ねないのだ。死ぬ理由が、あるいは「死ぬ意味」がわからないからだ。
生きることと同じく、死ぬことにも意味はない。
と言うよりも、意味があろうがなかろうが、人は死ぬときが来たら死ぬ。
自殺した人が、もし自殺しないでいたら翌日には突然死した…というようなことはじゅうぶん考えられることだ。
だから、私は言える。私が「生きる意味」を他者から問われる筋合いはない、と。
他者が、誰彼の生きる意味を否定できはしない。
このことを突っ込んで言えば、私が「役に立つか否か」は、決して他者の判断にゆだねることは出来ない、ということだろう。